2017年1月12日、最初の記者会見をした。前代未聞の大荒れであった。こんな調子で国内は済むかも知れぬが、外国では米国の大恥。どうなるのであろうか。
選挙中も問題視され、会見でも指摘された外国との貿易不均衡問題、的外れの感を逃れない。

a)70~80年代日本との不均衡問題
70~80年代に日本との間に不均衡問題が発生。繊維、工作機械、鉄鋼、自動車等で起きた。象徴的であったのは、自動車で1983年であったか230万台の自主輸出規制を日本は飲み込んだ。二国間で話合で合意。その後も、色々な産業で起こり、1985年のプラザ合意に至る。1987年にはルーブル合意。それでも不均衡はなくならず、日本の内需拡大を要請され、バブルを発生させた。その間、90年代には日米構造協議が何度ももたれ、内需拡大と国内制度改革が要請された。

b)トランプとの比較
いまの時代、二国間で貿易不均衡を解消するなど不可能。メキシコに工場をつくると米国への輸入に高い関税35%?を掛けると脅されている。しかし特定の自動車メーカーに関税を掛けることはできない。
日本の場合には、スーパー301条で脅されて自主的な規制を飲んでいる。今回これはできないだろう。中国にはこの手を使うかも知れない。スーパー301条とWTOの関係は微妙だが、中国はWTOに提訴するだろう。ややこしい貿易戦争にはいる。しかし日米構造協議で味をしめて二国間で話し合いをしようとしている。
為替の調整もできない。日本は自由変動を採用し、為替市場には介入していない。ただ金融政策を通して為替を動かしてはいる。しかし金融政策までは介入しないだろう。また内需が少ないと他国の内需までは口をだせないだろう。
TPPの離脱は米国単独でできるが、あんなに時間を掛けてしたものを米国の思惑で破棄するのは勿体ない。何がしかの取り決めは、米国抜きでも進めるべきであろう。

市場主義を標榜する米国が、市場原理に従わず、力づくで経済を動かそうとしている。

新しい時代が始まっている。2つのキーワードは、中国の台頭とインターネットの本格的開始、デジタル経済化である。

a)デジタル経済~インターネットの本格開始
インターネットの本格的開始をサポートするハードとソフトの装置が2000年以降、流布している。
2004年:facebook登場
2006年07月:twitter登場
2007年01月:iPhone登場
2009年:ビットコイン運用開始
2009年01月:日本で株式電子化
2010年10月:インスタグラム登場
2016年01月:日本でマイナンバー制度開始
多くが米国主導で行われている。同様のソフトは今後も登場するだろう。上は推進装置であるが、以下は産業の側の動きである。
本年あたりからAIやIoT(あるいはIoE)が本格的に始動するだろう。また自動車産業にもデイタル化の波が押し寄せている。電気自動車は90年代からあるが、2017年からHV車がカリフォルニアのエコカーの定義から外れ、新たな段階に入る。トヨタも電気自動車に移行しつつある。それと平行して自動運転が急速に広がっている。そこには米国の自動車産業への戦略が隠されている。2つの動きを通して米国のレシプロエンジン技術の遅れを、脱レシプロを加速化することで挽回しようとする。後発の中国もその動きは歓迎している。米国の最終的意図は携帯で実現したOSを支配することで、世界の自動車産業を支配下におくことにある。

b)中国の台頭
90年代後半に中国が台頭、安い製品を世界にバラまいている。それを後押しする出来事は、中国でのオリンピックと万博開催であったと言える。
2008年08月:北京オリンピック
2010年05月:上海万博
中国に対抗すべく先進国でも平均賃金率が低下、非正規雇用が増大し、経済格差が顕著化している。2015年にはピケテイの経済格差の議論が話題となる。

この動きの延長上にくる人間の未来は、人間の尊厳が失われ、多くの人間が機械に使われて奴隷化される実態であろう。さらに先にある未来は、人間が生産の束縛から解放され、真に人間的な生活を享受できる社会であることを期待したい。


外交で正面切って正攻法で相手を説得するのは至難の業。サイバー戦争などとインターネットを通して仕掛けを掛けてくる時代となった。

a)対米国
米国大統領選挙をめぐってプーチンは、ヒラリー候補を落とすような工作をしたとCIAが暴露した。プーチンならするだろう。日本の安倍首相は次期大統領トランプに直接会った、正攻法と言える。中国は娘のイバンカにアプローチしていると言われる。米国を動かすのは相当のメリットがあるから民主主義の弱点をついて今後も外圧が攻勢をかけてくるだろう。

b)対日本
日本は防備が緩いので簡単に入れる。中国は沖縄をめぐり干渉している。資金をだして沖縄独立させる学会を設立。過激派へも資金援助しているだろう。沖縄のみならず左翼を通して国内政治にも食い込みを図る。

c)対旧東欧
プーチンはブルガリアの大統領に、親ロシアの大統領を誕生させたと言われる。つぎのターゲットはバルト3国。旧ソ連の崩壊で失った周辺を取り戻そうとしている。

d)対中国
中国共産党のガードが堅いから干渉は無理だろうと一般には思われている。しかしそこに食い込もうとしている組織がある。よくニュースを追っていればわかる。

外交は正面工作、裏工作が今後蔓延るから気を付けて国際関係をみてゆく必要がありそうだ。
2016.12.23 漱石:草枕
BS朝日で「あらすじ名作劇場」というのがあって、初めて見た。冒頭の一節はあまりに有名なフレーズ。冒頭の名文を以下で再現する。

山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。=>知情意の極地の世界を戒める。適度なバランスが必要であることを説く。

住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。=>芸術の本質に迫る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。
住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。着想を紙に落さぬとも、音は胸裏に起る。丹青は画架に向って塗抹でも五彩の絢爛は自から心眼に映る。ただおのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうららかに収め得れば足る。この故に無声の詩人には一句なく、無色の画家には尺なきも、かく人世を観じ得るの点において、かく煩悩を解脱するの点において、かく清浄界に出入し得るの点において、またこの不同不二の乾坤を建立し得るの点において、我利私慾の覊絆を掃蕩するの点において、――千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である。
世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏のごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日はこう思うている。――喜びの深きとき憂いよいよ深く、楽みの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片づけようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖えれば寝る間も心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。閣僚の肩は数百万人の足を支えている。背中には重い天下がおぶさっている。うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。……
=>さすがに人生の達人といえる。漱石のように30有余でこの境地に達しておれば、もっと豊かな人生を送れたのにと思えてならない。

余の考がここまで漂流して来た時に、余の右足は突然坐りのわるい角石の端を踏み損くなった。平衡を保つために、すわやと前に飛び出した左足が、仕損じの埋め合せをすると共に、余の腰は具合よく方三尺ほどな岩の上に卸りた。肩にかけた絵の具箱が腋の下から躍り出しただけで、幸いと何の事もなかった。
立ち上がる時に向うを見ると、路から左の方にバケツを伏せたような峰が聳えている。杉か檜か分からないが根元から頂きまでことごとく蒼黒い中に、山桜が薄赤くだんだらに棚引いて、続ぎ目が確と見えぬくらい靄が濃い。少し手前に禿山が一つ、群をぬきんでて眉に逼る。禿げた側面は巨人の斧で削り去ったか、鋭どき平面をやけに谷の底に埋めている。天辺に一本見えるのは赤松だろう。枝の間の空さえ判然している。行く手は二丁ほどで切れているが、高い所から赤い毛布が動いて来るのを見ると、登ればあすこへ出るのだろう。路はすこぶる難義だ。
土をならすだけならさほど手間も入るまいが、土の中には大きな石がある。土は平らにしても石は平らにならぬ。石は切り砕いても、岩は始末がつかぬ。掘崩した土の上に悠然と峙って、吾らのために道を譲る景色はない。向うで聞かぬ上は乗り越すか、廻らなければならん。巌のない所でさえ歩るきよくはない。左右が高くって、中心が窪んで、まるで一間幅を三角に穿って、その頂点が真中を貫いていると評してもよい。路を行くと云わんより川底を渉ると云う方が適当だ。固より急ぐ旅でないから、ぶらぶらと七曲りへかかる。
たちまち足の下で雲雀の声がし出した。谷を見下したが、どこで鳴いてるか影も形も見えぬ。ただ声だけが明らかに聞える。せっせと忙しく、絶間なく鳴いている。方幾里の空気が一面に蚤に刺されていたたまれないような気がする。あの鳥の鳴く音には瞬時の余裕もない。のどかな春の日を鳴き尽くし、鳴きあかし、また鳴き暮らさなければ気が済まんと見える。その上どこまでも登って行く、いつまでも登って行く。雲雀はきっと雲の中で死ぬに相違ない。登り詰めた揚句は、流れて雲に入って、漂うているうちに形は消えてなくなって、ただ声だけが空の裡に残るのかも知れない。
巌角を鋭どく廻って、按摩なら真逆様に落つるところを、際どく右へ切れて、横に見下すと、菜の花が一面に見える。雲雀はあすこへ落ちるのかと思った。いいや、あの黄金の原から飛び上がってくるのかと思った。次には落ちる雲雀と、上る雲雀が十文字にすれ違うのかと思った。最後に、落ちる時も、上る時も、また十文字に擦れ違うときにも元気よく鳴きつづけるだろうと思った。
春は眠くなる。猫は鼠を捕る事を忘れ、人間は借金のある事を忘れる。時には自分の魂の居所さえ忘れて正体なくなる。ただ菜の花を遠く望んだときに眼が醒める。雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然する。雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれほど元気のあるものはない。ああ愉快だ。こう思って、こう愉快になるのが詩である。
たちまちシェレーの雲雀の詩を思い出して、口のうちで覚えたところだけ暗誦して見たが、覚えているところは二三句しかなかった。その二三句のなかにこんなのがある。
  We look before and after
    And pine for what is not:
  Our sincerest laughter
    With some pain is fraught;
Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.
「前をみては、後えを見ては、物欲しと、あこがるるかなわれ。腹からの、笑といえど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、極みの歌に、悲しさの、極みの想、籠るとぞ知れ」
なるほどいくら詩人が幸福でも、あの雲雀のように思い切って、一心不乱に、前後を忘却して、わが喜びを歌う訳には行くまい。西洋の詩は無論の事、支那の詩にも、よく万斛の愁などと云う字がある。詩人だから万斛で素人なら一合で済むかも知れぬ。して見ると詩人は常の人よりも苦労性で、凡骨の倍以上に神経が鋭敏なのかも知れん。超俗の喜びもあろうが、無量の悲も多かろう。そんならば詩人になるのも考え物だ。
しばらくは路が平で、右は雑木山、左は菜の花の見つづけである。足の下に時々蒲公英を踏みつける。鋸のような葉が遠慮なく四方へのして真中に黄色な珠を擁護している。菜の花に気をとられて、踏みつけたあとで、気の毒な事をしたと、振り向いて見ると、黄色な珠は依然として鋸のなかに鎮座している。呑気なものだ。また考えをつづける。
詩人に憂はつきものかも知れないが、あの雲雀を聞く心持になれば微塵の苦もない。菜の花を見ても、ただうれしくて胸が躍るばかりだ。蒲公英もその通り、桜も――桜はいつか見えなくなった。こう山の中へ来て自然の景物に接すれば、見るものも聞くものも面白い。面白いだけで別段の苦しみも起らぬ。起るとすれば足が草臥れて、旨いものが食べられぬくらいの事だろう。
しかし苦しみのないのはなぜだろう。ただこの景色を一幅の画として観、一巻の詩として読むからである。画であり詩である以上は地面を貰って、開拓する気にもならねば、鉄道をかけて一儲けする了見も起らぬ。ただこの景色が――腹の足しにもならぬ、月給の補いにもならぬこの景色が景色としてのみ、余が心を楽ませつつあるから苦労も心配も伴わぬのだろう。自然の力はここにおいて尊とい。吾人の性情を瞬刻に陶冶して醇乎として醇なる詩境に入らしむるのは自然である。
恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。しかし自身がその局に当れば利害の旋風に捲き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩んでしまう。したがってどこに詩があるか自身には解しかねる。
これがわかるためには、わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は観て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は棚へ上げている。見たり読んだりする間だけは詩人である。
それすら、普通の芝居や小説では人情を免かれぬ。苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。見るものもいつかその中に同化して苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。取柄は利慾が交らぬと云う点に存するかも知れぬが、交らぬだけにその他の情緒は常よりは余計に活動するだろう。それが嫌だ。
苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通して、飽々した。飽き飽きした上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩である。いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少かろう。どこまでも世間を出る事が出来ぬのが彼らの特色である。ことに西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる詩歌の純粋なるものもこの境を解脱する事を知らぬ。どこまでも同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世の勧工場にあるものだけで用を弁じている。いくら詩的になっても地面の上を馳けてあるいて、銭の勘定を忘れるひまがない。シェレーが雲雀を聞いて嘆息したのも無理はない。
うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある。採菊東籬下、悠然見南山。ただそれぎりの裏に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向うに隣りの娘が覗いてる訳でもなければ、南山に親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。独坐幽篁裏、弾琴復長嘯、深林人不知、明月来相照。ただ二十字のうちに優に別乾坤を建立している。この乾坤の功徳は「不如帰」や「金色夜叉」の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てた後に、すべてを忘却してぐっすり寝込むような功徳である。
二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀にこの出世間的の詩味は大切である。惜しい事に今の詩を作る人も、詩を読む人もみんな、西洋人にかぶれているから、わざわざ呑気な扁舟を泛べてこの桃源に溯るものはないようだ。余は固より詩人を職業にしておらんから、王維や淵明の境界を今の世に布教して広げようと云う心掛も何もない。ただ自分にはこう云う感興が演芸会よりも舞踏会よりも薬になるように思われる。ファウストよりも、ハムレットよりもありがたく考えられる。こうやって、ただ一人絵の具箱と三脚几を担いで春の山路をのそのそあるくのも全くこれがためである。淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遥したいからの願。一つの酔興だ。=>分かりました。淵明、王維は名前は知っているが、内容を味わっていなかった。
もちろん人間の一分子だから、いくら好きでも、非人情はそう長く続く訳には行かぬ。淵明だって年が年中南山を見詰めていたのでもあるまいし、王維も好んで竹藪の中に蚊帳を釣らずに寝た男でもなかろう。やはり余った菊は花屋へ売りこかして、生えた筍は八百屋へ払い下げたものと思う。こう云う余もその通り。いくら雲雀と菜の花が気に入ったって、山のなかへ野宿するほど非人情が募ってはおらん。こんな所でも人間に逢う。じんじん端折りの頬冠りや、赤い腰巻の姉さんや、時には人間より顔の長い馬にまで逢う。百万本の檜に取り囲まれて、海面を抜く何百尺かの空気を呑んだり吐いたりしても、人の臭いはなかなか取れない。それどころか、山を越えて落ちつく先の、今宵の宿は那古井の温泉場だ。
ただ、物は見様でどうでもなる。レオナルド・ダ・ヴィンチが弟子に告げた言に、あの鐘の音を聞け、鐘は一つだが、音はどうとも聞かれるとある。一人の男、一人の女も見様次第でいかようとも見立てがつく。どうせ非人情をしに出掛けた旅だから、そのつもりで人間を見たら、浮世小路の何軒目に狭苦しく暮した時とは違うだろう。よし全く人情を離れる事が出来んでも、せめて御能拝見の時くらいは淡い心持ちにはなれそうなものだ。能にも人情はある。七騎落でも、墨田川でも泣かぬとは保証が出来ん。しかしあれは情三分芸七分で見せるわざだ。我らが能から享けるありがた味は下界の人情をよくそのままに写す手際から出てくるのではない。そのままの上へ芸術という着物を何枚も着せて、世の中にあるまじき悠長な振舞をするからである。
しばらくこの旅中に起る出来事と、旅中に出逢う人間を能の仕組と能役者の所作に見立てたらどうだろう。まるで人情を棄てる訳には行くまいが、根が詩的に出来た旅だから、非人情のやりついでに、なるべく節倹してそこまでは漕ぎつけたいものだ。南山や幽篁とは性の違ったものに相違ないし、また雲雀や菜の花といっしょにする事も出来まいが、なるべくこれに近づけて、近づけ得る限りは同じ観察点から人間を視てみたい。芭蕉と云う男は枕元へ馬が尿するのをさえ雅な事と見立てて発句にした。余もこれから逢う人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、爺さんも婆さんも――ことごとく大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見よう。もっとも画中の人物と違って、彼らはおのがじし勝手な真似をするだろう。しかし普通の小説家のようにその勝手な真似の根本を探ぐって、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤の詮議立てをしては俗になる。動いても構わない。画中の人間が動くと見れば差し支ない。画中の人物はどう動いても平面以外に出られるものではない。平面以外に飛び出して、立方的に働くと思えばこそ、こっちと衝突したり、利害の交渉が起ったりして面倒になる。面倒になればなるほど美的に見ている訳に行かなくなる。これから逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気がむやみに双方で起らないようにする。そうすれば相手がいくら働いても、こちらの懐には容易に飛び込めない訳だから、つまりは画の前へ立って、画中の人物が画面の中をあちらこちらと騒ぎ廻るのを見るのと同じ訳になる。間三尺も隔てていれば落ちついて見られる。あぶな気なしに見られる。言を換えて云えば、利害に気を奪われないから、全力を挙げて彼らの動作を芸術の方面から観察する事が出来る。余念もなく美か美でないかと鑒識する事が出来る。
ここまで決心をした時、空があやしくなって来た。煮え切れない雲が、頭の上へ靠垂れ懸っていたと思ったが、いつのまにか、崩れ出して、四方はただ雲の海かと怪しまれる中から、しとしとと春の雨が降り出した。菜の花は疾くに通り過して、今は山と山の間を行くのだが、雨の糸が濃かでほとんど霧を欺くくらいだから、隔たりはどれほどかわからぬ。時々風が来て、高い雲を吹き払うとき、薄黒い山の背が右手に見える事がある。何でも谷一つ隔てて向うが脈の走っている所らしい。左はすぐ山の裾と見える。深く罩める雨の奥から松らしいものが、ちょくちょく顔を出す。出すかと思うと、隠れる。雨が動くのか、木が動くのか、夢が動くのか、何となく不思議な心持ちだ。
路は存外広くなって、かつ平だから、あるくに骨は折れんが、雨具の用意がないので急ぐ。帽子から雨垂れがぽたりぽたりと落つる頃、五六間先きから、鈴の音がして、黒い中から、馬子がふうとあらわれた。
「ここらに休む所はないかね」
「もう十五丁行くと茶屋がありますよ。だいぶ濡れたね」
まだ十五丁かと、振り向いているうちに、馬子の姿は影画のように雨につつまれて、またふうと消えた。
糠のように見えた粒は次第に太く長くなって、今は一筋ごとに風に捲かれる様までが目に入る。羽織はとくに濡れ尽して肌着に浸み込んだ水が、身体の温度で生暖く感ぜられる。気持がわるいから、帽を傾けて、すたすた歩行く。

茫々たる薄墨色の世界を、幾条の銀箭が斜めに走るなかを、ひたぶるに濡れて行くわれを、われならぬ人の姿と思えば、詩にもなる、句にも咏まれる。有体なる己れを忘れ尽して純客観に眼をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ。ただ降る雨の心苦しくて、踏む足の疲れたるを気に掛ける瞬間に、われはすでに詩中の人にもあらず、画裡の人にもあらず。依然として市井の一豎子に過ぎぬ。雲煙飛動の趣も眼に入らぬ。落花啼鳥の情けも心に浮ばぬ。蕭々として独り春山を行く吾の、いかに美しきかはなおさらに解せぬ。初めは帽を傾けて歩行た。後にはただ足の甲のみを見詰めてあるいた。終りには肩をすぼめて、恐る恐る歩行た。雨は満目の樹梢を揺かして四方より孤客に逼る。非人情がちと強過ぎたようだ。
=>川端康成もこの紀行を読んで、伊豆の踊子を書いたに相違ない。景色と自身の夢の世界を交錯させている。
いまフランスは、昨年のパリ、今年のニースとテロに悩まされている。600万人いるというアラブ系住民と如何に共存するかで揺れているかのようだ。われわれの世代、フランスというのは憧れの的であった。いまこんな惨状をみるにつけ昔日のフランスが懐かしい。その当時活躍していた人物も同時に思い出す。

a)イブ・サン=ローラン(1936年8月1日~2008年6月1日)71歳没
フランス人らしい風貌、米国や英国などにはいない。フランスのもっている何かをたたえている。言わずとしれたデザイナー。今見ても素晴らしいと言える。天賦の才がるとしか言いようがない。フランス領アルジェリア出身のファッションデザイナー。または、彼の名を冠したファッションブランドをさす。ココ・シャネル、クリスチャン・ディオール、ポール・ポワレらとともに20世紀のファッション業界をリード。フランス領アルジェリアのオランで、保険会社で働く中産階級の両親の家庭に生まれた。子供の頃パリに引越、1953年17歳の時にパリのシャンブル・サンディカル・ド・ラ・オート・クチュール・ファッションデザイン学校に入学。IWS主催のデザインコンクールのドレス部門においてカクテルドレスを発表し最優秀賞を受賞。 そのカクテルドレスの縫製はユーベル・ド・ジバンシィで、またその時の毛皮部門の受賞者はシャネルのデザイナーであるカール・ラガーフェルドであった。この時の審査員であったVOGUEのディレクター、ミッシェル・デブリュノフは、無名の若い少年のポートフォリオを初めて見た時、新作として発表している友人のクリスチャン・ディオールと同じA-ラインの線を描くイヴに驚き、すぐディオールに紹介した。そして、独創的かつ想像力に富んだ彼のデザインは、ディオールに非常に強い感銘を与えることになる。

b)イブ・モンタン(1921年10月13日~1991年11月9日)70歳没
イタリア、トスカーナ地方のモンスンマーノ・テルメで出生、フランスで活躍した俳優・シャンソン歌手。死没地フランスサンリス。イヴ・モンタンという芸名は、子供の頃、戸外にいた彼を母親が階上から、「イーヴォ、モンタ!」(Ivo, monta!, イーヴォ、上がってきなさい!)と呼んでいたことにちなむという。農民の子として誕生。母は敬虔なカトリック教徒であったが、父が強固な共産主義支持者であったため、当時台頭してきたムッソリーニのファシスト政権を嫌い、1923年に家族でフランスに移住。マルセイユで育ち、港で働いたり、姉の経営する美容室で働くなどしていたが、次第にミュージック・ホールで歌うようになる。1944年にエディット・ピアフに見出され、彼女はモンタンにとって助言者また愛人となり、2人の関係は数年の間続いた。1945年に映画デビュー。1946年に出演した「夜の門」で、主題歌の「枯葉」を歌ってヒット。

c)アラン・ドロン (1935年11月8日)現在81歳
アラン・ドロンと言えば、「太陽がいっぱい」に代表される甘いロマン。1960年代から1980年代初めにかけ美男の代名詞的存在だった、身長184cm。パリ郊外のオー=ド=セーヌ県ソーで生まれる。父は小さな映画館を経営、母は後に結婚するナタリーと雰囲気の似た美人で、薬剤師の資格。4歳で両親が離婚、母方に預けられるも、再婚したシャルキュトリの義父と合わなかったこと、そして母親が新たに生れた娘だけを可愛がった為にアランは除け者とされる。更に実父も再婚、息子ジャン=フランソワが生まれていた。それら家庭不和に因る愛情不足が所以で女生徒と度々問題を起こし寄宿学校を転々、最終的には手に負えない問題児として感化院に入れられ、一時的に鉄格子生活をも経験。その後14歳より前述の食品店で働き始めた。自分の居場所を求めていたアランは苦肉の策としてフランス外人部隊へ志願、未成年者は保護者の承諾が必要だったが、母は義父の言うがままに承諾。この一件で、母への憎しみが根深く残る事となり、次第に女性不信という形で表れていった。こうして17歳で入隊し、マルセイユより貨物船に乗せられ、カービン銃の扱いだけを教わって落下傘部隊へ配属され第一次インドシナ戦争へ従軍。1955年休戦条約によって20歳で無事除隊後はアメリカとメキシコを放浪、1956年に帰国後はパリのモンマルトルなど方々を転々とし、サン=ジェルマン=デ=プレに落ち着いた。初めて知ったが不幸な青年時代を過ごした。

d)ジャン・ギャバン(1904年5月17日~1976年11月15日)72歳没
映画俳優、歌手としても活躍、俳優としては悪役で有名。往時のフランス映画を代表する名優、深みのある演技と渋い容貌で絶大な人気を得た。中でも食事をする芝居が上手く、日本の映画俳優である高倉健はギャバンを好きな俳優に挙げており、食事の芝居はギャバンを見て勉強したと語っている。1904年、パリに生まれる。ギャバンの父はミュージック・ホールの役者、母は歌手であり、ギャバンも自然に芝居の道へ入った。場末のミュージック・ホールで主に活動し、この時期に演技はもちろん、歌についても相当の修練を経ている。

4名の思い浮かぶフランスを代表する人物を上げたが、アラドロン以外は鬼籍の人。70歳前後で逝っている。若い頃の栄養不足からか70歳とは今から言えば若い。こうした人たちが活躍したフランス、世界はよかった、希望に満ちていた。